Recycle缶の階_稽古場日記

2015/05/04
初演時の稽古場日記

Recycle缶の階の稽古はまだはじまっていません。
はじまったら定期的に更新いたします。

※初演時の稽古場日記はこちらです。
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2015/07/14
稽古場日誌【客席編】…顔合わせ・読み合わせ(吉本尚加)

先日客席編の顔合わせ・初読み合わせがありました。

緊張しつつも作・演出の久野那美さん、役者の七井悠さん、中村彩乃さんと簡単に挨拶をして、
こういった場をうまく和ませるにはどうしたらいいんでしょうなんてお話しながらすぐにそのまま読み合わせに入っていきます。

一番はじめに最初から最後まで読み進められるのを聞いていると何だか詩の朗読のようでした。
そこに久野さんがエッセンスを加えていきます。

一回相手のことばを受け取ってすぐに投げ返してみましょう。
今度は声を大きくして、その次はなるべく低くして…

すると、読まれているのは同じ台詞なのに次第に言葉が全く違う顔を見せ始めます。
今度は確かに人と人との会話です。
色が、世界が広がっていきます。
少しのことで受ける印象がぐんぐん変わっていってそれにまた惹き込まれます。
演じる人がそのことを楽しんでいるというのはすぐそれを受け取る側にも伝わりますし連鎖します。
その連鎖を見ているのがまた楽しい。

最終的にどこに向かっていくのか、そして到着するのか。目を開いていきます。

制作助手
吉本尚加

2015/08/18
稽古場日誌【舞台編】…太田宏(出演)


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太田宏です。
今日は再演舞台編の初稽古でした。
パシフィックシアターを使わせていただいて、劇場稽古させていただきました。

メンバーは久野、諸江、森田くんと、私は初めましての浅田真那さん。

稽古場に演出とは違うもう一つの目があるのはありがたいです。
あとのメンバーもグンと若いらしいです。

いやあ、稽古、ヒリヒリと頑張りますよ〜。先ずは、彼らに飽きられないように喋れないとダメですもんね。

演劇のスタイルには流行り廃りがあると思います。
でも、役者のアプローチには、何千年も昔から脈々とある、普遍的な「何か」がある気がしてるんです。舞台に立ってお客さんの前でしゃべる、ということなんですから。
でも、その何かが、掴んでいるのに、はっきりしない、掴めてそうでくっきりしない。
つまり、うまく説明できないわけなんですが・・・。

というわけで、体現するしか手は残ってないんです。なので、やってみます。

観て、そしてどうなってるか、教えてください。

チケットも発売しております!

花園町パシフィックシアターに立ってます!


2015/08/18
稽古場日誌【客席編】…中村彩乃(出演)

こんばんは、中村彩乃です。今回客席編に出演致します役者です。

さて、今日の稽古は、自由に身体を動かしながら、本読みを重点的にしました。
台詞は完璧に入っては無いものの、やっぱり台本をはずすことによって生まれる余裕があり、
なるだけ早く完全に台詞をいれたいな、とひしひしと感じました。
そして、ただ読むだけでなく、久野さんからの提案のもと、私は幾つかの挑戦をしていました。

例えば
・自分の聞いたことない音を出してみる
・相手の言葉(音)をよく聞く
・ゆっくり話してみる
・目をしっかり見る
・私は無言で、七井さんは台詞有りで。また、私は音だけで話してみる。
等のことを。

台詞の広がりの可能性、表現的な部分と叙情的な部分の匙加減、役者の特性についてを多く話せたように思います。

如何せん私は経験が足りないので、出来るだけ素直に、柔軟に、空っぽにして、
でも役者としての責任を持って稽古したいものです。
本番までの期間、焦らずに何かを積んでいきたいと思います。

どうぞこれから、宜しくお願い致します。

2015/08/27
稽古場日誌【客席編】…七井悠(出演)「自然」が今のところのテーマになっている」


今回、recycle缶の階の「客席」を扱ったほうの作品に出演します、七井と申します。
このrecycle缶の階、とは去年の末に「缶の階」という団体が上演した、「舞台」と「客席」にまつわる二作品を、「再演」する団体です。

今回私は同じ作品を再演します。「客席」にまつわる作品は、二人芝居でして今回は相手役の女優さんが前回とは違う方です。
その女優さんは中村さんといいます。27日は中村さんとの二回目の稽古でした。

今回、久野さんと再演するに当たってどういう風にやろうか、ということをなんとなく話をしました。
その中で「自然にやる」という言葉が出てきました。
もっと言うと、「抽象的な事柄を非常に具体的にやる」ということになるでしょうか。

前回は、とにかく台詞(言葉)に忠実に、一語一句違えずに話す ということを目標に稽古をしました。
今回の目標は、自然にやる です。

一度演じた作品をどう自然にやるのだろう。
そもそも自然にやるとは何だろう。
稽古はそういった、疑問?をはらんで進んでいます。

今回は2回目の稽古とあって、お互いに立ちながら台詞をあわせてゆく稽古を行いました。
一番印象的だったのは、椅子を使って稽古をしたら(客席、なので椅子がある)とたんに台詞が台詞くさくなった・芝居が芝居くさくなった ということです。
台本に指定のある「椅子」を使うと、とたんに演技がわざとらしくなった=ではない 
のは何なのだろうか?
もしかしたら「椅子」は使わなくてもいいのか?? 
それくらい、可能性の幅を広げながらの稽古でした。

2015/08/29
稽古場日誌【客席編】…浅田真那(演出助手)

今回演出助手として関わっております、浅田真那です。
29日は京都で客席編の稽古でした。

出演者の七井さんがお休みだったので、演出助手の森田くんが代役をして、もう一人の出演者である中村さんと本読みを中心に稽古をしました。
本読みといっても、椅子に座って机に向かって、というような稽古ではありません。
役者さんたちは稽古場を歩き回り、身体を楽にして、時には(ボール無しで)バスケットボールをしながら……などなど、様々なかたちでセリフを読んでいきます。
中村さんは久野さんからの指示で、ギャルになったり土星人になったりしながらセリフを読んだりもしました。

↓わっかが素敵な土星人の中村さん。



私たちは時々、
「こういう役なら、こう読むのがそれっぽいよねー」
と勝手に決め付けて、セリフを読んでしまいがちです。
でも、自然に言葉を話している時、「自分はこんな人間だからこんな話し方をするんだ」と決めて話す人って実は少ないんじゃないかと思います。
中村さんが土星人として言葉を話している時、見ている人は「あ、それ土星人っぽい」と思うことはまずないでしょう。土星人に正解はありません(あってもわかりません)。
それと同じように、こうすればその役っぽくなる演技なんて、あるはずがないのではないでしょうか。
そんなことを考えさせられる稽古でした。

残念ながら本番で土星人が出てくるわけではありませんが、舞台でしか出会えない、中村さんの役に出会える日が今からとても楽しみです。

2015/08/31
稽古場日誌【客席編】…大谷菜々(演出助手)

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今回演出助手を致します、大谷菜々です。
本日は桃山台にて客席編の稽古でした。

今日は七井さんがお休みだったので前半は中村さんと観客が客席に着くまでの過程の稽古をしていました。最初は先日のように土星になったりギャルになったりしながら稽古していたのですが、そのうち人はただ椅子に座れと言われたらどんな行動をするかについて考え始め、すこし実験をしましたが…詰めが甘く失敗に終わりました。またの機会に……
後半は制作助手の吉本さんの参加により、ダイアログの稽古をしました。これもまた先日のように何かになりきったりしていたのですが、お題が人で無くなっていくにつれてその物自体の役割、形、その物に自分がどのように接しているかなど様々な視点から物を見る学校の授業のようなものになっていきました。
また、人でない物が相手だと役者さんも相手のことをしっかり観察するようになるねという話になり、久野さんと役者さんは一歩前進する何かを掴んだようです。
何かになりきるためにお題をくださいと突然言われ、私はとっさに〝靴下〟と答えましたが役者さん2人は色々な視点から見事に対応してくれました。2人とも最初は何をするにも体の形がL字になっていて、なんとなく靴下を頭に思い浮かべているんだろうなというのが伝わってきました。頭に思い浮かべた何かの形というのも演技に影響してくるのかもしれないと思いついつい見入ってしまいました。今日はそれぞれ何かを掴んで持ち帰れた稽古になったのではと思います。次の稽古が楽しみです。

2015/08/31
稽古場日誌【客席編】…中村彩乃(役者) 役者について

今晩は、役者の中村です。お久しぶりです。いえ、そうでもありませんでした。

稽古場日誌ということはなのですが、ここ数日の稽古で得た物が自分の中でかなり大きかったので、漠然とになりますが、得たものを書いておこうと思います。乱雑な文章、というか文章になってるのかもわからないレベルですがお許しください。

一昨日、昨日の稽古は七井さんがいらっしゃらなかったので森田さんと浅田さん、大谷さんと吉本さんに稽古ご一緒していただきました。(こんなに贅沢な経験は、後にも先にも中々無いのでは無いでしょうか。有り難い限りです。)

○その2回で
・ギャル(私はギャルをはき違えてると思いますが一応)
・土星人
・カニ
・靴下
でしてみました。
不思議なことですが、上二つでは「中村ならこうする」という自分の範疇を越えたもののフィルターを通したことにより、自分の言葉が自由になりました。
また、下の二つではえらく相手の一挙手一投足に全神経を総動員して見ていため、相手ときちんと話ができたように思います。
この、特に後者の「相手をしっかり見る」ということは、自分の中で非常に良い稽古でした。
同じくして、久野さんに「お客さんは別に気にしなくても良いよ」と言っていただいたことも大きかったように思います。この「お客さんの存在」については、今までもよく自問自答してたのですが、演出家さんというポジションの方から正面切って言葉にされたということが、今まで案外なく、何かが自分の中で外れたように思いました。

○「登場人物としての感じて話して生きてる(ということをする)私」と「役者としてお客さんに登場人物を表現をしようとする私」の二つの塩梅が難しいということを稽古中にぼやいたいたところ、その塩梅考えるものじゃあないのでは、という話になりました。

○「登場人物になろう、なったと表現をすること」を逆算している時点でそれはベクトルの向きが違う。登場人物、というか人間は何かから逆算して生きてない。進行形で生きてる。
例えば観客は観客になろうとして劇場に入ってきてない。劇を見に来て、それが誰かから見たとき始めて観客になる。
なのにそこで役者が「観客になろう」としたら、その意識がすでに回りから浮いてるのでは、ということについても稽古中で話しました。

○不思議なことで、演出さんやお客さんが「良かったね」と感じるときって、役者は何も考えてなかったり、今のなんか違うなと思ったりすることが多いです。
(多分私以外にもその経験がある人はいるかと)意識を空っぽに、または、全然違うことに気をとられてる役者の状態って案外、普段の人間の状態に近いのかなと、感じました。

○あと、「聞き方」にいう点をピックアップして、私達の普段と舞台の上での身体の状態についても考えました。
私たちが普段生活する上で、人の話を聞いてるときって、(私の場合特に)そんなコックリコックリ頷いて聞かないもので。
芝居でするコックリコックリとか、あれって、相手の話を聞いてるよ!って伝えるためのリアクションとしてのコックリコックリは、相手との対話だけど、「相手の話を私今聞いてます。ほら、コックリコックリって動作、話聞いてる時によくするでしょ」という役者としての(もしかすると無意識の)表現としてしてしまうと、それはお客さんからすると情報じゃなくなってしまう。


そのような話しました。


自我は消えない、というか、消す必要がない、どう付き合っていくかということを考えないといけないのではと、思いました。相手ありきの空間だということを忘れないよう、また、あまり今回得た物に縛られ過ぎないよう、幸い長期的に創ることができるので、柔軟に、今回得たものを使っていきたいと思います。

長くなりました。失礼します。

2015/09/02
稽古場日誌【客席編】・・・七井悠(出演)変化すること

9月2日、本日京都にて稽古。
最初に、お互い適当な(自由な)感じでの台詞あわせで頭から最後まで通しをして、その後は久野さんからの提起で、おかれているシチュエーション(椅子がおいてある)、やキャラクターの特徴をある方向に特化させて(石、キザでクール、舞台監督など)演技をしてみるという稽古をしました。

再演はやはり、前回自分がやった事との向き合いというか闘い?だと感じました。与えられた状況で変化をつけているつもりでも、自分が拠り所にしている「台詞」は変わらないので、それをしゃべっている感覚が、前回の演技に引きずられている訳で。いろんなものが自分にくっついているのでしょう。残したほうがいいものもあるし、取っ払ってしまったほうがよいものもあるでしょう。
それらをどうやって感じながら稽古をしてゆくのか。

舞台に立っている2人は、ちょっと複雑な関係(演じている役、俳優個人、役を演じている自分等・・)を含みながら
相手を見つつ演技しているのではないかと。そこで出てくる変化する可能性を、掬ってゆく稽古にしたいです。

2015/09/09
稽古場日誌【客席編】…中村彩乃(役者) 誰かになること

今晩はです。中村です。

昨日は大きな部屋ででの稽古でした。音の反響や空間の使い方が違うと、当然のことですが芝居も変わるようで。

今回の稽古では、前回現れた「劇場という場にそぐわない、そもそも演劇というジャンルが自分の中に無い人(岡崎さんと命名)」をしてみようということでしたが、なかなかその岡崎さんは現れず、次回以降の持ち越しとなりました。
代わりに、久野さんから色々やってみようということで、
・声を低くだす
・ネコ
・嫌いな人
など、様々な試みが出来ました。

また、台詞を言うなかで思ったことではないのですが、役者自身の体調や気分の影響についての話題が上がり、それについてもかんがえていました。

以前は、役者さんが役者自身の何かを舞台にのせることに違和感を持っていました。しかし、最近は、その情報もひとつの構成要素ではないかと思うようになりました。
例えば、登場人物は、相手と話をしています。では、役者は何をしているのか。多分役者も相手と対話をしています。その「相手」というのが、登場人物なのか役者なのか、また、登場人物の中に役者がいるのか、役者が登場人物を纏っているのか、この感覚は人それぞれだと思います。
私は、どちらともつかないのですが、少なくとも役者自身(の身体や気持ち)を切り離してするということより、この現場では、それらの状態がどのように作用するかを、決めつけずに見届けて受け止めることが大切なのでは無いかと考えました。

先ずは素直に。いきたいと思います。

2015/09/09
稽古場日誌【舞台編】…森田深志(演出助手)、各々の言葉

9/8(水)曇り、台風通過。
今日の稽古内容は、「自分の言葉ではない、登場人物の言葉との折り合いのつけ方」と「相手を見て聞いて話すこと」でした。
台詞って普段は自分が使わない語尾だとか言い回しだとかが平気で出てきます。説明的な台詞であればなおのことです。では、外国語を取得する際にネイティヴに近づけようとする作業のように、台詞を日常会話に近づけるにはどうすればよいのでしょうか。

相手を見て聞いて話すことを舞台上で素直にやる為には、稽古場でいろいろ考えた上で様々な引き出しを用意する必要があります。これは多分刺激クラスを反応クラスにレベルを上げることと似ているのだと思います。例えば、「赤」という概念を説明する時にはどのようにすればよいでしょうか。実際に赤いものを指差してこの色だと言うのが手っ取り早いと思います。「イチゴを見せる」「赤い車を見せる」「コカ・コーラの缶を見せる」など。しかしこれでは「イチゴ=赤」「赤い車=赤」「コカ・コーラの缶=赤」ということしかわかりません。これが刺激クラスです。そしてこの刺激クラスが蓄積されて自分の中に「赤とはこのようなものか」と弁別できるようになってきます。ここでようやく、教わっていない「ポストの色が赤だ」ということが分かるようになります。これが反応クラスです。
つまり、答えの集合体を作ってしまえば、応用が利いて何が起こっても答えられるようになるということです。これは舞台上でも同じで、稽古とは引き出しの集合体を作ることなのではないかと考えています。

今日は、日常ではしないであろう癖を意識して直(治?)す作業もしました。諸江さん(役者)は指摘された癖をすぐ自覚できるところが本当にすごいと思いました。

森田

2015/09/14
稽古場日誌【客席編】…中村彩乃(役者) 余白のある芝居

今日は、中村彩乃です。暑さも和らぎ、過ごしやすい気温になって参りました。如何御過ごしでしょうか。

先日の稽古は、京都で行いました。前回の稽古からあまりたっていなかったのですが、日数というか、一分でも時間たてば人間は当然のごとく何か変わるため、また違った状態で稽古が出来ました。

久野さんからお題をいただいての稽古は、
・劇場にこいつ来ねーだろうなというちょっと常識外れの人
をしてみました。 重要なのは、ここでの常識とは、世間一般でなく、演劇界での常識です。
「その人の常識」は、人それぞれの持ち合わせてる価値観によって変わるものでしょうから、自分の持ち得ない常識のもとで動くというのは自分の価値観を外れた動きにつながることになり、興味深いです。新しい発見の積み上げは、何処で使えるかわからないですから、大事にしたいと思います。

また、個人的な感覚ですが、脚本とそして久野さんの演出は、余白があります。自由とはちょっと違います。決まっている台詞(脚本)とそれを媒体にする役者との距離に、常に余白があるため、それを埋めるのに役者が自由になれるといいますか。その余白に何か私一人ががっちり作り込んだものを埋め込んでも面白くありませんし、そもそも型があるわけでないため、決め込むのは出来ません。久野さんの言葉や七井さんの芝居を受けて、どういう風に埋めようか、粘土のように捏ね繰り回していく過程が、この現場では必要なのかなと。
そんなことを考えました。

2015/09/15
稽古場日誌【客席編】…七井悠(役者) 慣れてしまっていること

少し遅くなりましたが、9月10日の稽古場日記を。

この日の稽古も前回と同じように、お互いに台詞あわせをするところから入っていきました。
何回か通したり、返したりしているうちに、自分(七井)の反応や台詞の発語の仕方がちょっとずつ大仰な
ものになっていることに気がつきました(正確には稽古後久野さんと話して、より自覚したのですが)。
台詞はつっかえずに出てくるのに、中村さんの言葉と演技にかみ合っていないと言うか。

この現象は何なのでしょう。

おそらく、前回の「缶の階 客席編」での演技を、体が覚えていてその反応をなぞってしまっているのでは
ないか、と考えています。相手が発してくる台詞は同じでも、ニュアンスや体の状態、そもそも台詞を言っている
当人が違う人なのですから、前回と同じになるはずがないのです。
その辺までの微妙な差異を、きちんと汲み取ってゆくことが必要だと気づきました。

前とは違うものを・・・ と考えていたつもりでも、どうしても自分に残っているものを使ってしまうようです。

何を手がかりに変化や新鮮さを作ってゆくのか・・・。

とりあえず、台本が外国語が書かれている と言うような気持ちで読んでいこうと思っています。 

2015/09/22
稽古場日誌【舞台編】…吉本尚加(制作助手)自分の意志とは


こんばんは、吉本尚加です。
遅くなってしまったのですが、16日に京都で行われました稽古に参加して参りました。

~しながら喋ること、話すことの目的、その行動で生まれる構図、目的。
普段は意識なんてせずにしている様々なことが稽古場では浮き彫りになっていきます。
不思議なことにそれらは一度意識して近付こうとすればするほど遠ざかっていくようです。
それでは、ということで一度思い切り大げさにやってみてはどうかということになりました。
すると、それをそのまま続けていくうちにそこから受け取る印象がどんどんと異なっていきます。何だか台詞の一つ一つが、言葉が、観ていて「その人の体に馴染んでいっている」ようです。

また、そうしているうちに諸江さんにも変化が現れました。
久野さん曰く「今の大げさな方が先ほどまでの演技よりやわらかく感じる」とのこと。
それについてもその場にいた全員で理由を考えてみたのですが、
・楽しそうだから
・自分の身体がここにあるということについてポジティブに捉えられているから
・(次に何をするかについて考えているために)自分が喋る時のことを相手が話している間に考えているから
ではないか?という所から、

(喋らされているのではなく、)自分で喋っている感じがするから言葉や体を裏切っている感が無い

という所にたどり着きました。
以前、客席編の稽古場で「とても良かった役者に今何をしていたの?と聞くと大抵『何も考えていなかった』と返される」、というような話になったことがありました。
私達は普段夢中で生きています。「こんな風に喋ってやろう」「これをしたら次はああいう風に動こう」とか考えながら会話したり動いたりすることなんてほとんど無いのではないか、と思います。
今回の稽古で改めてそのことを実感すると共に、人間の体というものはとても正直なものなのだなと再認識しました。
普段と違ったことをその上で自然にやろうとした時の違和感のようなものも、発信する側が伝えることを楽しんでいるときもまっすぐに受け手にそのことを伝えてくるのは何よりもまず発信する側の体なのだなと。
そうして諸江さんの起こされる化学反応が今後どのように作用していくのか、楽しみに見届けたいと思います。

2015/09/28
稽古場日誌【客席編】…中村彩乃(役者) 受けについて

今晩は、中村彩乃です。
今宵はスーパームーンのようです。

遅くなりましたが、先日は久々の稽古でした。日が空いた稽古は面白いもので。良い意味で、前回の稽古を引きずらずにリセット出来る(反省は勿論しますが)ため、新しいことに挑戦しやすく感じます。ただ、そのためには準備が大切で。準備…。固めてしまわずに自由でいるための準備といいますか。それを蔑ろにしたくないなと思います。

稽古の中盤、私の「最近の目下の課題は、受けることです!」と言ったことに関して、少し受けの芝居について話しました。
それというのも、芝居中に、相手の台詞に被して、自分本意な芝居(行動)をしてしまいまして。そこから色々受けについて考えました。

見る、聞く、感じる等々、様々な感覚はあります。それらのバランスというか、それらを受けて、自分の芝居(行動)があって相手に返すまで、それで初めて「受け」なのかなと。
少し現段階で、この件について考えが纏まってないのと、もう少し考えたいこともあり、いつもより、より纏まりのない文章になりましたが、
今後の稽古(というか、演劇をするうえ)で少ずつ重ねていきたい課題というか、目標であります。

なんとなく、芝居を「積む」という感覚に、最近なってきました。

2015/10/08
稽古場日誌【客席編】…七井悠(役者) 目が違う

10月6日 久しぶりに客席編の稽古がありました。

久しぶりすぎて色々と不安だったのですが、自分が思っていたよりいい稽古になりました。

体の状態が、いつもと違いました。
今までは、脱力するために努力していた(ぐにゃぐにゃする)のですが、今回は体はしっかりしているのに脱力している(感覚だった)。

そして、相手を見ることに集中する。
知覚の始まりは目 だと思っているのだが、目から入る情報に集中すると、相手の微細な変化に自分が反応しているのが分かる。
表現するために見るのではなく、自分を確かめるために見る、とでも言うか。
再演にふさわしく?、今までになかった人物像が出てきました。

そういえば中村さんも、いつもと違う目をして演技をしていた。

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2015/10/11
稽古場日誌【客席編】…中村彩乃(役者) あやふや

今日は、最近は秋も深まり、少しずつ冬服なんかも着だすような季節になってまいりました。

さて、稽古場日誌です。
ところで私は文章力が非常に乏しいです。起きたことを文章に表現する力が弱く、いつも四苦八苦しながら文章にするのですが(その作業は大切ですので精々苦しめ自分よ、と思います)。
此度の稽古で起きたことを文章にまとめるのがなかなか難しいです。
明確に言えることは、私は稽古場で転げ回っていたこと、見てくださってたお三方が非常に楽しそうに笑ってらっしゃったこと、七井さんが泰然自若と場を過ごしてらっしゃったことです。
明確に言えないことは、
・役者の、役者である前の個の状態(体調や心持ちや気分)の作用の働き
・準備しないための準備をする
・固定しないところ(柔軟に動くところ)と、自分の中から生まれたものを辿って働きかける、この二つの境
・「良い役者」や「良い人」の表現にみられる「良い」の可能性
・脚本から摘出できる事実(その脚本の世界の中の事実?)を辿ることが必要であること。その辿る最中で自由に動くこと

等です。
一日置けば考えもまとまるとおもったのですが、どうも釈然とせず、まとめることが出来ませんので、この足場の固まらない状態を一回許してやろう(諦めでなく)と思いました。

余談ですが、稽古場にいらっしゃった大石さんは、言葉にするのがとても丁寧で上手く、凄いと思いました。





2015/10/13
稽古場日誌【客席編】…七井悠(役者)劇場にて

久しぶりに稽古場日記を書かせて頂きます。

と書いたら、前回の稽古場日記も「久しぶりに」と書いていました。 
何故なんでしょう。

本日は、今回の本番を行うパシフィックシアターで劇場を借りての稽古でした。

演技することと、演技の行われる場所は結構親密な関係にあると思っていまして、同じ話でも場所が変われば別のものになるのではないかと感じます。
何故なんでしょう。

毎回、台詞合わせのような状態から、緩やかに立ち稽古に入って行けるのがとても面白い稽古場です。
稽古場と劇場では、言葉を出す時の感覚もちがうのでそれを確かめながらの稽古です。

自分は何が出来ている(と思っているのか)、何が出来ていない(と思っているのか)、何をするべき(と考えているのか)
と言うような事を検証しながら。

共演者の中村さんは、劇場に対して違和感がない(と言うような旨の言葉)と言ってはりました。
また今度、聞いてみようと思います。

七井

2015/10/16
稽古場日誌【客席編】…浅田真那(演出助手) 稽古場ではなんだって起こる

こんばんは、浅田真那です。
少し遅くなりましたが、10月16日は京都で客席編の稽古でした。
この日の稽古場にはどっしりとした座り心地の良い椅子がたくさんあり、それらで簡単な客席を作って舞台に見立て、稽古をしました。

この日、中村さんの演技が凄く毅然としていて、今まで「劇場にあまり来たことのない人」だった役が、「劇場にあまり来たことはないけど何かのために劇場へ来た人」になっていました。
本人に理由を聞いても、何が理由であるのかははっきりとはわかりません。(卒業論文で演劇の本をたくさん読んでいること、読んだ演劇の本に凄く勉強になることが書かれていたことなどはあったようです)
こういうことは七井さんにもあり、七井さんは時々本当に人間が違うのではないかと思うほど、演技中に豹変する時があります。(久野さんはこの状態の七井さんを「魔術がかっている」と言います)

Recycle缶の階の稽古場では、毎回凄まじい勢いで色んなことが変化していきます。

「今これだけ演技が変わったんだから、もうこれ以上変わることなんてないだろう」
……というレベルの変化がたった3時間の稽古の中で何度も起こるのです。
それは"進化"とか"退化"とか、そんな言葉では定められるようなものではありません。
良いか悪いかなんて関係なくて、変わっていくことに意味があるんだ、というような変化の仕方をしていきます。
七井さんの演技が変わったら、中村さんの演技が変わっていって、また七井さんもそれに変えられていく。そうして作品は予想を裏切って、言葉の額縁に収まりきらない意味を持つようになる……。
常に新しい今が生まれる、凄い現場に立ち会わせてもらっているな、といつも鳥肌がたちます。

2015/10/23
稽古場日誌【客席編】…中村彩乃(役者) 準備しないための準備

今晩は。中村です
10月も終わろうとしていますが、いかがお過ごしでしょうか。気がつけば今年も終わり、光陰矢の如し、いやはや恐ろしいです。

さて、昨日は劇場での稽古でした。
珍しく、まず、通し稽古をしました。

先日も書いたような気がしますが、物語は常に進行するものです。終わるから始まるのでなく、始まるため終わります。当然のことようですが、しかし、俳優(または、公演の参加者)は、物語の終わり・経過・起きうる展開を「台本を読む」という行為を経て、既に知っています。この俳優と登場人物の間に生じる矛盾というか事象への認識の齟齬というか、の摺り合わせがむずかしく、また面白い部分でありまして。

自分の言葉や行動は、全て自分以外の何か(相手や環境)から、触発されて生まれるため、これを蔑ろにすると、会話ではなく、芝居は独りよがりのものになります。(と、私は思います)そのため、常に目の前の現象に対応しなければいけません。

ただ、昨日の稽古場では、登場人物のバックボーンといいますか、内的な、価値観の感覚というか、その登場人物の積み重ね(それまでの人生)といったものの扱いについて、考えさせられました。

登場人物について、台本から得られる情報をもとに、想像をします。例えば、その登場人物が、劇中で出てくるチケットを、どこで、誰と、何時に、買ったのか等々。
それらのことに思いを巡らせることは、なかなか面白いし得られるものはあると思います。
しかし、これは独りよがりの芝居と紙一重、という危険もあります。
この、稽古時間以外に俳優個人が創るものに固執しすぎると、「稽古」という折角の、自分以外の人との価値の摺り合わせの場の意味がなくなってしまいます。

先日出た「準備しないための準備」という言葉は、とても自分の中にしっくりしていて。稽古場で自由に芝居をするための準備をしつつ、それに寄りかからず、柔軟に在るための加減を、自分、また久野さんや七井さんとしていきたいと思います。

私自身は思慮浅く、恐らく、比較的″直感的に物事をみる″ことを好意的に感じるタイプの者なのですが、
缶の階(この脚本)では「なんか、演劇たのしー!」という感覚的な楽しみかたで終わるより、何が起こったのか・何をしたのかを考え、思考を重ねる方が、より楽しめるなと、極々個人的に感じます。

あと、久野さんの言葉を受けての、七井さんのとある台詞の芝居を見て、素で笑ってしまいました。まだまだ修業が足りません。

長くなりました。それでは、失礼しま



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