--/--/--
スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2015/10/30
稽古場日誌【客席編】…浅田真那(演出助手)

冬は暖を取るために缶珈琲を買います。こんばんは、浅田真那です。
10月30日は中京青少年活動センターにて客席編の稽古を行いました。

私はほぼ2週間ぶりの参加だったのですが、久野さん、七井さん、中村さんたちにとっては4日連続稽古の最終日。
しかもこの日は早速、稽古場見学募集のページを見たお客さまが1人いらっしゃって、少し緊張しながら稽古場に向かいました。


稽古の最初は最近課題になっていたらしい冒頭での男(七井さん)が女(中村さん)に声をかけるシーンを何回もやりました。
久野さんからの「これでもかというくらい大げさに声をかけてみては?」という提案に従い、七井さんは「振り向きざまに手をバァっと広げて相手に声をかける」というとても不自然な動きを試しておられました。
すると、男にとっては理由のある行動でも、事情がわからない女にとっては不審としか思えない行動をすることで、相手に対する危機感を覚え、相手のすることに関心を持つためか芝居がどんどん動いていきます。
この始まりから何かを掴んだ様子のお2人は、通し稽古に入っていきました。

……結論から言うと、本当に、とてもいい通し稽古になっていました。

話を続けようする男は女に話の邪魔をされてうまく話が続けられなくなるたびに、また女は自分の想定していたことが男によって裏切られていくたびに、どんどんお芝居が不安定になっていきます。
不安定というのは悪い意味ではなくて、自分が思っていた5分後、3秒後が全て裏切られ、それに気づいた時に自分の中の状況が再構成されるということ。
普通の会話では当たり前のことでも、喋る台詞も結末も決まっているお芝居でそれらを行うことのなんと難しいことか。
そんな難しいことをまだ何もかもが完璧だったわけではなくても、お2人は見事に表現していっていました。

久野さん曰く、「今日は連続稽古の中でも特に良かった」とのこと。
それでもまだ変えていけるところ、特に台詞と台詞の間の間などについては課題もあったりして、これからの稽古もまだまだ変化していく余地がありそうです。

本番が迫ってくる中、まだまだ楽しみな客席編の稽古でした。
スポンサーサイト

2015/10/29
稽古場日誌【客席編】…七井悠(役者)劇の冒頭の緊張感

11111.jpg


29日は、京都の東山青少年活動センターという場所で行いました。
この場所は昔私が演劇の稽古に使ったりしていたので、久しぶりに行って懐かしい気持ちになりました。

去年の缶の階でもそうだったのですが、劇の冒頭(の入り方)が大事だ と言う話にrecycle缶の階でもなっています。
そのせいもあってか、劇の途中から稽古をすると積み重なっているものが少なく(感じるので)思うように行きません。
(ですが、途中からの稽古で重なったもので冒頭が変わるということも有り得るわけで、、)

なので、今回は冒頭での二人の緊張感を生み出すにはどうやって二人が出会えばよいのか、と言うことを色々ためしながら稽古をしました。
まったく別の方向を向いた人間が、唐突に、(ある種)特異な環境で出会ったら、互いにどのように反応するのか。
最近キーワードになっている「不安定さ」も、この辺に絡んできている気がします。
「不安定さ」は、「関係の不安定さ」なのかもしれません。

では、主体としての俳優はそこにどう居るべきなのでしょうか。

2015/10/28
稽古場日誌【客席編】…中村彩乃(役者)不安定な魅力

今晩は、中村です。今晩は、満月です。

今日は客席編の稽古でした。
昨日の稽古では、個人的に「登場人物の目的を明確にしよう」と思って稽古に望んだのですが、それが思いの外、芝居に影響しました。ので、昨日に捕らわれるのではありませんが、今日も、個人的に、(登場人物の)目的を(中村・役者の)意識の何処かに起きつつ、稽古をしてみました。

また、今日の稽古では、言うべきものがある安定した状態と、その場その場に対応して、流動的に在ろうとする不安定さ、について考えました。
…以下の文は、この稽古場から感じた「芝居について」のことであって、全ての舞台芸術に当てはまるとは思ってません。

台本というのは、変わりません。
紙に書かれた文字という媒体で作者から生まれたもので、ある日突然頁を捲ったら台詞が変わってたっ!なんて、勿論ありません。(改編という形はありますが)

しかし、一方、人間(演出家、俳優、スタッフ、観客)は、常に良くも悪くも不安定です。それが、舞台の魅力であると私は思います。が、ただ、その不安定さでは、あまりに拠り所がありません。

そのために、安定した存在である台本は、大きな軸になります。
俳優は、台本の言葉を読みます。台本から得た情報は、言わずもがな、大切な要素になります。
例えば、その物語の中で、どう呼吸(=存在)をすれば良いか、という、ある種…生き方・在り方と言いますか、を打ち出してくれる一端を担っていると思います。

また、一人で台本を読んでいて気づけないことに、稽古場で、はたと気づくことがあります。その気付き、その場での自分(≒登場人物)の心の琴線に触れた震えを積み上げて、「台本」という紙に書かれた文字という媒体から、その場にいる人が立ち上げたものが、結果、「芝居」と呼ばれるのではないかな、と思います。

凄い感覚的なことを多く書いてしまいました。

自分の整理も含め、凄いざっくりいうと、今日稽古では、
安定を目指して生まれたものは、何処か面白味が物足りないし、寂しい。不安定なことを許して、その代わり、しっかりその場で起きたことを受け止めていくことが大切なのでは
、ということであった、ような、感じがします。私の受け取り方では。

文章にすることは、大切ですが、同時に、むずかしいですね。

2015/10/28
稽古場日誌【客席編】…七井悠(役者)違いました

七井です。

10月ラストを飾る4連続稽古の初日でした。
10月も終わるのだから、何か課題を設定してそれを追及しよう、と久野さんと話をしました。

課題、課題、、課題、、、

結局考えても全体と部分を切り離すことは出来ないなあと(私は)感じ、いつも通り冒頭から丁寧に通してゆきました。

結果、この日の課題は「登場人物の目的の設定」になったと(稽古後に)思いました。

稽古の最後に全体を通しました。自分でも言うのもおかしいですが、非常に面白かった。
今までの稽古で出てこなかった反応がお互いに生まれて、久野さんの書かれている台詞の意味がとてもクリアになり、自分の中でも新しい解釈が出てきました。

間を取らないこと。お互いの会話があっちこっちを向いて成立しないこと。相手に注目すること。

今回再演をするにあたって、前回と違うものを と漠然と考えていましたが、今回の稽古でその一端が少し見えたと思います。

また次に稽古をするときは、同じようには行かないでしょう。同じ事を繰り返しても面白くないので、常に変化できる状態 を探ってゆきます。

2015/10/23
稽古場日誌【客席編】…中村彩乃(役者) 準備しないための準備

今晩は。中村です
10月も終わろうとしていますが、いかがお過ごしでしょうか。気がつけば今年も終わり、光陰矢の如し、いやはや恐ろしいです。

さて、昨日は劇場での稽古でした。
珍しく、まず、通し稽古をしました。

先日も書いたような気がしますが、物語は常に進行するものです。終わるから始まるのでなく、始まるため終わります。当然のことようですが、しかし、俳優(または、公演の参加者)は、物語の終わり・経過・起きうる展開を「台本を読む」という行為を経て、既に知っています。この俳優と登場人物の間に生じる矛盾というか事象への認識の齟齬というか、の摺り合わせがむずかしく、また面白い部分でありまして。

自分の言葉や行動は、全て自分以外の何か(相手や環境)から、触発されて生まれるため、これを蔑ろにすると、会話ではなく、芝居は独りよがりのものになります。(と、私は思います)そのため、常に目の前の現象に対応しなければいけません。

ただ、昨日の稽古場では、登場人物のバックボーンといいますか、内的な、価値観の感覚というか、その登場人物の積み重ね(それまでの人生)といったものの扱いについて、考えさせられました。

登場人物について、台本から得られる情報をもとに、想像をします。例えば、その登場人物が、劇中で出てくるチケットを、どこで、誰と、何時に、買ったのか等々。
それらのことに思いを巡らせることは、なかなか面白いし得られるものはあると思います。
しかし、これは独りよがりの芝居と紙一重、という危険もあります。
この、稽古時間以外に俳優個人が創るものに固執しすぎると、「稽古」という折角の、自分以外の人との価値の摺り合わせの場の意味がなくなってしまいます。

先日出た「準備しないための準備」という言葉は、とても自分の中にしっくりしていて。稽古場で自由に芝居をするための準備をしつつ、それに寄りかからず、柔軟に在るための加減を、自分、また久野さんや七井さんとしていきたいと思います。

私自身は思慮浅く、恐らく、比較的″直感的に物事をみる″ことを好意的に感じるタイプの者なのですが、
缶の階(この脚本)では「なんか、演劇たのしー!」という感覚的な楽しみかたで終わるより、何が起こったのか・何をしたのかを考え、思考を重ねる方が、より楽しめるなと、極々個人的に感じます。

あと、久野さんの言葉を受けての、七井さんのとある台詞の芝居を見て、素で笑ってしまいました。まだまだ修業が足りません。

長くなりました。それでは、失礼しま



2015/10/16
稽古場日誌【客席編】…浅田真那(演出助手) 稽古場ではなんだって起こる

こんばんは、浅田真那です。
少し遅くなりましたが、10月16日は京都で客席編の稽古でした。
この日の稽古場にはどっしりとした座り心地の良い椅子がたくさんあり、それらで簡単な客席を作って舞台に見立て、稽古をしました。

この日、中村さんの演技が凄く毅然としていて、今まで「劇場にあまり来たことのない人」だった役が、「劇場にあまり来たことはないけど何かのために劇場へ来た人」になっていました。
本人に理由を聞いても、何が理由であるのかははっきりとはわかりません。(卒業論文で演劇の本をたくさん読んでいること、読んだ演劇の本に凄く勉強になることが書かれていたことなどはあったようです)
こういうことは七井さんにもあり、七井さんは時々本当に人間が違うのではないかと思うほど、演技中に豹変する時があります。(久野さんはこの状態の七井さんを「魔術がかっている」と言います)

Recycle缶の階の稽古場では、毎回凄まじい勢いで色んなことが変化していきます。

「今これだけ演技が変わったんだから、もうこれ以上変わることなんてないだろう」
……というレベルの変化がたった3時間の稽古の中で何度も起こるのです。
それは"進化"とか"退化"とか、そんな言葉では定められるようなものではありません。
良いか悪いかなんて関係なくて、変わっていくことに意味があるんだ、というような変化の仕方をしていきます。
七井さんの演技が変わったら、中村さんの演技が変わっていって、また七井さんもそれに変えられていく。そうして作品は予想を裏切って、言葉の額縁に収まりきらない意味を持つようになる……。
常に新しい今が生まれる、凄い現場に立ち会わせてもらっているな、といつも鳥肌がたちます。

2015/10/13
稽古場日誌【客席編】…七井悠(役者)劇場にて

久しぶりに稽古場日記を書かせて頂きます。

と書いたら、前回の稽古場日記も「久しぶりに」と書いていました。 
何故なんでしょう。

本日は、今回の本番を行うパシフィックシアターで劇場を借りての稽古でした。

演技することと、演技の行われる場所は結構親密な関係にあると思っていまして、同じ話でも場所が変われば別のものになるのではないかと感じます。
何故なんでしょう。

毎回、台詞合わせのような状態から、緩やかに立ち稽古に入って行けるのがとても面白い稽古場です。
稽古場と劇場では、言葉を出す時の感覚もちがうのでそれを確かめながらの稽古です。

自分は何が出来ている(と思っているのか)、何が出来ていない(と思っているのか)、何をするべき(と考えているのか)
と言うような事を検証しながら。

共演者の中村さんは、劇場に対して違和感がない(と言うような旨の言葉)と言ってはりました。
また今度、聞いてみようと思います。

七井

2015/10/11
稽古場日誌【客席編】…中村彩乃(役者) あやふや

今日は、最近は秋も深まり、少しずつ冬服なんかも着だすような季節になってまいりました。

さて、稽古場日誌です。
ところで私は文章力が非常に乏しいです。起きたことを文章に表現する力が弱く、いつも四苦八苦しながら文章にするのですが(その作業は大切ですので精々苦しめ自分よ、と思います)。
此度の稽古で起きたことを文章にまとめるのがなかなか難しいです。
明確に言えることは、私は稽古場で転げ回っていたこと、見てくださってたお三方が非常に楽しそうに笑ってらっしゃったこと、七井さんが泰然自若と場を過ごしてらっしゃったことです。
明確に言えないことは、
・役者の、役者である前の個の状態(体調や心持ちや気分)の作用の働き
・準備しないための準備をする
・固定しないところ(柔軟に動くところ)と、自分の中から生まれたものを辿って働きかける、この二つの境
・「良い役者」や「良い人」の表現にみられる「良い」の可能性
・脚本から摘出できる事実(その脚本の世界の中の事実?)を辿ることが必要であること。その辿る最中で自由に動くこと

等です。
一日置けば考えもまとまるとおもったのですが、どうも釈然とせず、まとめることが出来ませんので、この足場の固まらない状態を一回許してやろう(諦めでなく)と思いました。

余談ですが、稽古場にいらっしゃった大石さんは、言葉にするのがとても丁寧で上手く、凄いと思いました。





2015/10/08
稽古場日誌【客席編】…七井悠(役者) 目が違う

10月6日 久しぶりに客席編の稽古がありました。

久しぶりすぎて色々と不安だったのですが、自分が思っていたよりいい稽古になりました。

体の状態が、いつもと違いました。
今までは、脱力するために努力していた(ぐにゃぐにゃする)のですが、今回は体はしっかりしているのに脱力している(感覚だった)。

そして、相手を見ることに集中する。
知覚の始まりは目 だと思っているのだが、目から入る情報に集中すると、相手の微細な変化に自分が反応しているのが分かる。
表現するために見るのではなく、自分を確かめるために見る、とでも言うか。
再演にふさわしく?、今までになかった人物像が出てきました。

そういえば中村さんも、いつもと違う目をして演技をしていた。

1.jpg














| ホーム |
Page Top↑
▲ Page Top
admin
管理
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。